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文化(暮らし)・歴史
虫追い
稲の害虫「ウンカ」を追い払う行事。平安時代末期の武将・斉藤別当実盛の
乗っていた馬が稲の切り株につまづき、転んだところを討たれ、その実盛
が害虫になったという言い伝えが「虫追い」の由来。
暑い最中の8月中ごろ、鉦と太鼓に続いて、松明を灯した子供たちが、田
んぼの周りを歩きます。こうすることで、稲の大害虫のウンカが火に誘われて
焼かれます。文字通り「飛んで火に入る夏の虫」です。
家田地区の「虫追い」は戦時中の3年間と昭和25年ごろから52年まで
途絶えていたのを、温故知新の会が復活させ、現在「北川家田虫追い保存
会」が子供たちに伝承しています。

亥の子(いのこ)祭り
「亥の子祭り」は、本深瀬地区に古くから伝わる農耕風習です。毎年、米の収穫が終わった「旧暦十月最初の亥(い)の日」に、「今夜は亥の子の晩じゃげな」という子供の元気な掛け声とともに、餅米の稲わらを束ねた「亥の子ボテ」を庭先で叩く音が日暮れの集落に響き渡ります。
この日は、春先に山から下り田畑を見守ってきた「田の神んさぁ」(大黒神)が山へ帰る日とされ、新穀でついた餅を捧げて一年の収穫に感謝、収穫に感謝し、無病息災を祈願しています。本深瀬には現在13世帯が居住していますが、子どもはもういません。そのため近年は、市内に住む地区出身者の孫やひ孫らが参加しています。

なんば引き
「なんば引き」は、護岸工事の際、堤防を補強するために人の力だけで行われていた杭打ち作
業(地締め)のこと。北川町町では昭和30年代ごろまで、老若男女問わず住民が一体となっ
て行われていました。
やぐらを組み、中心部には芯矢と呼ばれる分銅を通した長さ5メートルの鉄棒を取り付け、
引き網を滑車に引っかけて重さ55キロの分銅を引き上げて落とすことで、杭を打ち込ん
でいきます。
作業の際は、音頭取りが「コーノーヨーホーイ」とかけ声をかけると、引き手が「シャーント、
シャント」と応え、また音頭取りが「シャント、シャントでしっかりやろか」と歌うと、引き手
が「ヤレマカサイサイ、ヤレドッコイショ」と応えるなど、リズム良く杭を打ち込んでいきます。
「延岡北川温故知新の会」の故・黒木重代司会長が、長く途絶えていたものを、昭和62年(19
87)に一度、町の芸能発表会で再現してみせた後、平成21年(2009)から同会を中心
に復活に取り組んできました。23年度(2011)には、延岡工業高校生が再現体験し、その成
果を県工業技術発表会で発表し優勝しています。

木遣り唄
「木遣り唄」(きやりうた)は、漁村に残る「網引き唄」と同じ労働歌の一つ。林業従事者が、重い木材を鳶口(とびくち)で動かすときなどに歌われました。延岡市北川町にも伝わっており、次世代へ伝え残す努力が払われています。

籾すり歌
昔は稲刈りが終わり、稲束を「千歯こき」に通して脱穀が終わると、今度は土臼でひいて籾殻取り除き、玄米にする作業が待っていました。臼を回しながら、籾殻を取り除くときに歌われるのが「籾すり歌」です。消えかかった歌を「北川家田虫追い保存会」が、子供たちに伝承しています。

川坂神楽
川坂神楽は延岡神楽に属し、出雲神楽の流れをくみます。戦後、途絶えていたものを昭和49年(1974)に復活させました。内藤家文書「諸社祭礼神楽覚帳」には、川坂岩戸神社でも神楽が舞われていた記録があり、昭和の時代まで盛んに舞われていたと思われます。岩戸神社には、当時を偲ばせる神楽殿がありましたが、復活後の昭和52年(1977)に建て替えを行いました。
5つの神楽式を十二節に分けた三十三番神楽と別神楽四番で構成されています。舞は平舞(面を付けない舞)と面舞(面を付ける舞)とに分けられ、舞の所作は摺り足とし、顔や手などの所作も簡潔にし、舞踊等の所作は禁じられています。比較的静かな舞が多く、派手さは少ないのが特徴です。

北川と西南戦争
明治10年(1877)に薩摩士族の不満が頂点に達し、西南戦争が勃発しました。西郷隆盛ら1万5千の薩軍は、明治政府に問いただしたことあり、60年の大雪の中を鹿児島を出立、熊本城の攻防、田原坂・吉次峠の戦いの後、物量に勝る政府軍に押され九州各地を転戦します。8月15日には、延岡市の和田越えにて西南戦争最初で最後となる政府軍、薩軍総力戦が展開されます。5万対3千5百の兵力差ながら善戦しましたが、戦局は悪化し、北川町の俵野へと退きます。北川町俵野では、旧児玉熊四郎邸を本陣として宿陣。幹部らも周辺の民家に宿陣しました。西郷らは薩軍として最後の軍議を開き、解散布告令を出し、薩軍を解散しました。その際、西郷は重要書類とともに明治天皇から賜った当時日本で一着しかない陸軍大将の軍服を焼却しました。
8月17日午後10時ごろ、宵闇に紛れて西郷ら600人余りは高千穂三田井へ向かうべく政府軍が布陣する可愛岳突囲を敢行。可愛岳を突破した西郷らは、途中、祝子川で宿陣した後、高千穂三田井で出て、鹿児島への帰路に着きます。9月1日に鹿児島入りし、政府軍と戦闘を行います。城山に立てこもり、抵抗するも9月24日に西郷は自刃し、西南戦争が終結しました。
この北川町俵野の薩軍最後の本陣であり、薩軍を解散した旧児玉熊四郎邸は、昭和8年(1933)12月5日に「南州翁寓居跡」史跡として、県指定を受けており、現在は、「西郷隆盛宿陣跡資料館」として、当時のままの民家を保存し、西郷隆盛ゆかりの品や西郷の右腕として活躍した桐野利秋の脇差しなどを展示するほか、延岡市での戦闘の記録などが学べる資料館となっています。


北川陵墓参考地(ニニギノミコト御陵墓)
高千穂に降臨してきた天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の御陵墓とされる経塚古墳。宮内庁から陵墓参考地に指定されています。日本書紀には瓊瓊杵尊は死後、日向国の可愛之山陵(えのみささぎ)に葬られたと記述されています。


